CSR報告書
私たちは普段あまり意識していませんが、知らず知らずのうちに、共同体からインフラとして多大の恩恵を受けて生活しています。私たちヒトという生き物は共同体から離れて一日足りとも生きていけない存在です。私たちは好むと好まざるにかかわらず、そういう人工空間の中で生かされ生きています。したがって、ヒトがヒトとして「誠実」に生きるということの意味は、「獲得形質*1」を個人にとって無理のない範囲で共同体に還元するというところにあります。それが余分な脳を持ち、社会的動物として進化したヒトという種の特徴ではないでしょうか。
~ヒトはパンのみにて生きるにあらず~。物質だけにこだわって生きるということは、ヒトとしてあまりに空しい生き方です。共同体との有機的なかかわりを深めていくところに、ヒトがヒトとして生きるということの意味があります。それが”ホロニクス”という言葉に込められた私たちの真意であり、私たちの明日への指針です。
*1 知識・技術・物・金・その他、この世に生まれ出てから得たすべてのもの
What does it mean to live with human dignity?
Generally we are not aware, or we don't even realize that we benefit a lot from community infrastructure in everyday life.
Like it or not, we humans are to be in such a man-made environment that is designed for us to live.
Therefore, the meaning of living as a human, is to return one's "acquired characteristics (*1)" as many as possible to the community. Couldn't it make a human being, who is endowed with a large brain, and has been evolved as a social animal, different from the rest?
Man cannot live by bread alone.
Seeking for only material wealth would make one's life all too hollow.
The meaning of life with dignity lies in interacting organically with community.
This is what the word "Holonics" stands for, which represents our message,
and will be our guide to tomorrow.
*1) Everything we acquire after birth, i.e. knowledge, skills, materialobjects, money, etc.
私の履歴書
「持続する意志、そこに偶然は訪れる」
孔子の教えに従うと、「従心(心の欲する所に従えども矩を踰えず)」が理解出来る年齢になりました。私の故郷は四国の徳島、川島町学という吉野川中流域にある小さな田舎町です。終戦後すぐ、昭和23年の生まれ、団塊の世代の真っ只中です。平成7年に他界した父は、大学卒業と同時に軍医として従軍、シンガポールでの捕虜生活を余儀なくされた後帰国、生まれ故郷の川島町学の地に内科小児科医として開業しました。青春時代のほとんどを戦争に捧げた父の人生でした。
南国徳島というイメージもありますが、私が小さい頃、冬には30センチもの雪が積もりました。真夜中に、雪の積もった山道を2時間も3時間もかけて往診に行く父の姿を今でも記憶しています。往診の帰り、春の山道で、母の為に一輪の野の花を摘んで帰る父の優しさを私は忘れたことはありません。昔の政治家には政治家井戸塀という言葉がありました。私の田舎では「政治家で貧乏したのはA代議士、医者で貧乏したのは谷先生」と言われるほど金銭には無頓着な父でした。そんな父の背中に、自然な形で「20世紀の赤ひげ」像を感じ取っていました。私にとって、「20世紀の赤ひげ」は極めて身近な存在でした。今では、そんな父を誰よりも尊敬しています。
大学卒業を控え、私には幾つかの選択肢がありました。父の後を継ぐ開業の道、大学人として生きる道、病院勤務の道、他。しかし、いずれの道も既成の道は私にとってしっくりと来ないものでした。私は学生時代から、漠然としたものではありますが、病院と社会との乖離を感じ取っていました。病院が病んでいるという思いが、私の背中を強く押したのです。若さは怖さ知らず、行動に駆り立てる何かがあります。私が「病院を治す医者」を志した背景には、良きにつけ悪しきにつけ父の影響が大です。
大阪には医者の親戚が沢山いたということもありますが、昭和52年の春、若さに駆り立てられるように大阪を目指しました。昭和54年12月、未来世界を想定し、激しい逆風の中を「病院を治す医者」として大阪市生野区に51床の谷病院を開設しました。勿論、その時の銀行の担保は自らの生命保険です。その後、新設、M&Aを繰り返し現在規模に成長しています。病院経営42年、私にはこのフィールドでの未来世界が見えます。戦後システム、戦後文化の大転換点を迎え、自らのVISIONを明確に提示することで、グループの発展を目指しています。
私は「一業に徹して、一隅を照らす」という生き方が好きです。「医魂営才」、医者の魂まで売り渡すつもりはありませんが、近代化した医療環境下で医業を営む為には営才が必要条件となります。曖昧で、混沌として、不条理な世界にあって、そういうことに耐えながらも自らの理想を持ち続けるということが人としての誠実さであり強さであると私は信じます。
「オランくん」「ウータンちゃん」「みどりちゃん」は、「森の番人・森の賢人」とされるオランウータンをモチーフにしたキャラクターです。3人はホロニクスグループの活動を広く伝える為に、日々活動しています。